正下村塾

その昔、この名称で別スタンスのブログや個人サイトをあげていたことがあります。 10数年ぶりに、完全リニューアルでブログを復活させました。 私の思う【キャリア形成と雇用問題】、【世の中のこと】、【身近なこと】、【私の読後感】等、硬軟入り混じったサイトとなります。 どうぞ、よろしくお願いいたします。

私の読後感

人生の目覚まし時計が鳴ったとき【山下弘子】

hosi11:私の満足度(5.0)
本書は先に投稿している、雨上がりに咲く向日葵のように 「余命半年」の先を生きるということの著者、山下弘子さんの第二弾の著書。
著者の経歴等については、先の投稿でも述べているのだが、本稿からご覧になる方もいるかもしれないので、簡単に略歴のみ改めて記載してみよう。

事の始まりは、2012年の10月、突然の腹痛から病院へ行ったことから始まり、当時19歳の女子大生が、末期の肝臓がんと診断され、余命半年という、あまりにも非情な宣告を受けることから始まる。

hyousiしかし、激しい衝撃を受ける中、悲しみや恐怖、失望感・喪失感といった、家族ともどもの苦悩の中からも、果敢にも現実を受け止めようと決意。
そして、2kgにも及ぶがんの摘出手術を受け、一旦は、がんの苦しみから解放されたかと思いきや、再発、治療、手術を何度も何度も繰り返し、医師からも「もはや、打つ手はない・・・」とまで宣告されることに。

改めて直面する死への恐怖、未来を失う絶望感に襲われながらも、それでも、現実を受け入れながら、前を向く姿勢を貫く。
その若き女性に起こった悲劇と、その宿命に健気に立ち向かう姿は、次第にマスコミにも取り上げられ、各地で講演やセミナーにもチャレンジ、多くの人々の感動や共感を呼ぶことになる。

ご本人は、決して悲劇のヒロインを気取るわけでもなく、様々な自問自答と葛藤の中、等身大の自分を何かの形で社会のお役に立てればということに専念されることに。
そして、「自分のような若輩者が・・・・・」という謙虚な姿勢を決して崩さず、同時に自分自身を確立するためにも、情報発信を続けていく。

だが、はた目に見えるそのポジティブな生き方に関しても、実のところは、そうそう単純なものでもなく、ご本人ならではの様々な苦悩がある。
特に病魔に関しては、ご本人にしかわからぬ、日々一進一退の攻防とその恐怖。

やはり、激しい激痛との闘いがある現実の中、そのメンタルの管理は想像を絶するものがあろう。
そして、それを見守る家族や友人との関わり方、医療機関への信頼と期待、そして限界。

さらに、世間に露出した分、一方的に「がんにも負けず、健気に生きる薄幸の少女」というレッテルを張られてしまうことへの戸惑い。
また、「余命宣告ビジネス」、「死ぬ死ぬ詐欺」といった心無い人たちの誹謗中傷にも苛まされる。
  
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20歳をそこそこ超えたばかりの一人の女性が抱えるには、あまりにも大きな試練である。
しかし、そういった過酷な状況の中でも、己と真摯に向き合いながら自己の信念を構築していく。

決して著者は、特別に聖人のような人格を持ち合わせているというわけではない。
本当にどこにでもいる、ごくごく普通の若き女性なのである。

友人とは他愛のない馬鹿を言い合い、病気や己の宿命に対しては時に悪態をつくこともある。
泣き明かすこともあれば、運命を呪う瞬間も普通にある。

表面的にはポジティブ人間ではありながらも、実のところは年齢相応の若き女性であり、生身の人間である。
でも、現実からは逃げない、いや逃げることができないということを、正面から受け止める強さと勇気を持ち合わせており、等身大の自分を自ら認めて行くことが、限られた命への挑戦ということなのであろうか。

現実を受け入れる覚悟を決めた後は、前述したように全国での講演活動や本書のような書籍の出版。
さらに30近い国々を巡り、ダイビングに富士登山と大変にアグレッシブな活動を続けられ、残りの人生を謳歌され、生きる意味を追求され続ける。

obi22015年の2月。
第二弾である、この『人生の目覚まし時計が鳴ったとき』が出版された。

前作では事の経緯の説明と、そこからの決意表明的な内容が主であったが、本作はもう少し気持ちが進化した後の、著者が構築しつつある人生哲学からの語録的な意味合いが含まれている。

正直なところ、今回の本は、目次を見た時点で私は震えるほど感動した。
その目次をここに紹介しておきたい。

序章 人生のカウントダウン
第一章 どんなこともとらえかた次第
 1.イヤな記憶はイイ記憶で上書きする
 2.物事は「多面体」ではなく「球面体」として見る
 3.相手の気持ちは相手のもの、自分が決めてはいけない
 4.すべてに意味があると思うと、どんなことも励みになる
 5.嫌いな人でも、一歩踏み込んでみるといいところが見えてくる
第二章 自分にとって大切なことに囲まれて生きる
 6.すべては自分のため、他人からの評価を動機づけにしない
 7.100やればいいことを300やってきたから”貯金”ができた
 8.「じゃ、紫のアフロで! まじでくれよ~(笑)」
 9.みんな、納得できる答えをほしがっている
 10.選択肢と可能性は無限にある
第三章 勇気づけられる言葉、支えてくれる言葉
 11.「あなたの力になりたいんだけど、何をしたらいい?」と聞いてほしい
 12.どん底まで落ち込んだら、あと這い上がるしかない
 13.「がんばれ」は嬉しい言葉
 14.困ってはいるけれど、悩んではいない
 15.しんどいときは、体ががんばってくれている証拠


いかに、唐突に無慈悲な運命の壁を突き付けられたとはいえ、これが20歳を少し超えた女性のたどり着く境地なのだろうか。
年齢で言えば、私とは娘と言ってもおかしくないほどの年齢差がある。

決して年齢で、人をはかりにかけるわけではないのだが、魂の成長、昇華というものは年齢に関係がないということが実証されている。
まさに、この本の出版時点でも、その病状は現在進行中なのである。

しかしながらも、突然に、悲しい一報が公表される。
本年(2018年)3月25日に、ご逝去されたと・・・・・・・・。

私は、お会いしたこともない、まったくの赤の他人のお嬢さんながらも、同じ病気を闘う身としては、大きな衝撃と悲しみを禁じざるを得ず、慙愧の念に耐えられない想いに打ちのめされる。
公表されているのは、同年2月28日に病状が急激に悪化し、3日連続の緊急手術を受け、その後3週間の昏睡状態に陥いられたとのこと。

その病状悪化の前日までは、1泊2日で京都の御寺巡り、芸奴体験までしていたそうである。
なんと、運命を司どる者たちは、無慈悲なのだろうか。

享年25歳。
あまりにも早すぎる一生である。

でも、振り返ると故人となられた著者は、まさに全力で生ききったということは、まぎれもない事実。
実は著者は、昨年(2017年6月)に生涯の伴侶となるご主人と結婚式をあげられている。

ご本人にとっては、人生最高の幸福感に包まれたことであろうと思われるものの、その新婚生活としての短さには胸が痛む思いでもある。
それでも、人生そのものが長短ではなく、質であると割り切るならば、故人の心情としては、突然の終焉には無念でありつつも、人生そのものへの充実感・満足感はあったのではなかろうか。

著者が運営していたブログ『今を生きる ~山下弘子のほのぼの日常~』にて、2018年4月4日付けにて、お母様からの投稿がアップされている。
その文中に、臨終後、酸素吸入器の管を抜いた後の口元は笑みを浮かべていました。幸せな気持ちで旅だったと思います。』という一文が寄せられている。

このことは、まさに彼女はがんに打ち勝ったということではなかろうかと私は思う。
どんなにがんが強大で恐ろしい敵であっても、ご本人がそう思っていたかどうかはわからないが、私は『人間を舐めるな!!』ということを体現されたようにも思えてならない。

最後に、哀悼の意を込めつつも、本投稿を締めくくりたい・・・・・。
実は私、この本書を入手するには、たいへん苦労した。

私がよく利用するネットサイトのどこにも在庫がないのである。
タイミング的にも注文が殺到したのであろうか、もともとそんなに多く発刊されていなかったのであろうか。

唯一、ジャングルみたいな名前の、あの某サイトで中古品が出ていたのと、新品でも定価の3倍近くの価格で提供されていた。
私は、この本に限ってはまったくもって中古品を手にする気がなく、その3倍近くの値である3,317円で入手した。

今さらながら、私はこの著者に対しての畏敬と追悼の念を込め、例え定価の3倍の値であろうと、どうしてもお金を使いたかったのである。
そして、この本は間違いなく、それだけの価値がある納得の良書であったことは、ここに記しておきたい。

この本は、『不幸な人の人生の本』、『健気に病魔と闘った人』といった単純な捉え方をして欲しくない。
ましてや、ポジティブ精神の押し売りというような捉え方は、決してして欲しくない。

私は、充分に人生の教科書と言える内容になっていると、自信をもって述べておきたい。
改めて、謹んで著者のご冥福をお祈り申し上げます。
安らかに・・・・・・・。



雨上がりに咲く向日葵のように 「余命半年」宣告の先を生きるということ【山下弘子】

hosi11:私の満足度(5.0)
私達は当然のこととして、生の権利を享受している。
もちろん、完全無欠ではないものの、様々な庇護を受けながら、様々な人と出会い、別れ、幾多の試練を受けつつも、与えられた生をまっとうするため、泣き・笑い・怒り・喜びを感受しながら、日々刻々と営みを続けている。

しかし、ある日ある時、予想もしないその瞬間に、突如として自らの生の終焉を告げられ、未来への光を閉ざされ闇に包まれた時、人は何を思うだろうか・・・・・・。
「どうして・・・・」という、嘆きや悲しみは当然のことながらも、そこから自らの生に向き合うことができるだろうか。

残された人生の時間を、家族や友人、大事な人たちとの関係性を、どのように捉えていくのだろうか。
もし、それが自分自身の身に起きたことであったなら・・・・・・・。

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この本の著者、山下弘子さん。
1992年10月29日生まれ。

がん保険のTVCM「私はがんになって、いい子をやめました・・・・・」というフレーズのあの女性である。
この方、このフレーズの通り、いまや日本人の2人に1人の罹患率と言われるがん患者。

時は、2012年の10月1日。
当時、19歳にして突如として肝臓がんが発覚し、既にその時点で治療の余地なしという末期がんの診断を下される。


そして、余命半年を宣告され、あまりも突如として、未来ある若き女性に実に過酷な試練が立ちふさがる。
だが、直面したその衝撃と絶望、これ以上ない悲壮感と、喪失と無力感の中、苦悩と葛藤を続けながらも、けなげにもその運命そのものを大きく包み込む生き方を決意し、多くの人々の共感を呼ぶことになる。

その姿は、徐々にマスコミにも登場することにもなり、各地での講演活動という形に昇華していく。
今もなお動画サイトに、その一部が公開されており、そのアクセス数は伸び続けている。

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しかし・・・・・。
本年(2018年)2月28日に、病状が急激に悪化。

3日連続の緊急手術を受け、その後3週間の昏睡状態に陥り、ご主人とご家族に見守られながら、同年3月25日に帰らぬ人となる。
この文章を記する上で、心より謹んでお悔やみを申し上げたい。


この本は2014年11月、まさにその闘病のさなかに出版されたもの。
序章にあたる部分は、病気前の軽い自叙伝から始まる。

人前で話すのが苦手なこと、他人の期待に応えようとする人生感、自分の個性を見出せない悩み、受験の失敗等、決して順風満帆とも言えず、飾らない等身大の自分というものが披露されている。
しかし、ある日突然、身体に異常を感じたことから、急きょ駆け込んだ病院にて、家族にだけ知らされたあまりにも残酷な事実。

obi2そして、自身と家族でその事実を共有するまでのそれぞれの立場での苦悩。
さらに、そこから、19歳という将来ある若き女性に起きた悲劇から、ご本人は底の底まで落ちこみながらも、課せられた過酷な運命を背負い、懸命に自分の生きる意味を見出そうとする過程が描かれている。

でも、そこには、持ち前の明るさと、ご本人曰く、ノー天気で楽天家であるというご気性ではありながらも、それでも一人の若き女性の心の葛藤はそう単純なものではない。
絶望のさなか、手術ができるという一条の光明が見いだされ、2kgにも及ぶ肝臓がんの摘出手術を受ける。

一瞬の喜びを実感しながらも、それでもその後の再発・転移を繰り返し、何度となく遅いかかってくる病魔に対する、その正体の恐ろしさと共に、怒りと憎しみさえも覚えてくる。
また身体的にも激しい痛みや、若き女性には耐えがたい脱毛という症状にも悩まされる。

せっかく復学した大学も、病状再発による中退。
さらに、現代医療の治療に対する期待と現実的な限界への失望感。

もはや、まったなしである。
でも・・・・・・。

そんな中で、著者自身が見つけることができた真実とは・・・・・・。
この本には、そんな著者の葛藤と決意、揺れ動きながらも前に進む、力強い命の力が表現されている。

この本のタイトル、『雨上がりに咲く向日葵のように』というネーミンングで、向日葵という花の名が使われている。
これは、著者の友人から「あなたの人生にタイトルをつけるとしたら何ですか?」と問われて、とっさに好きな花の名の『向日葵』と答えたことから。

そして・・・・・。

向日葵がいつもまっすぐにのびていること。
太陽の方向を向いていること。

鮮やかな黄色は、自分で光を発するわけではないが、月のように太陽の光を反射してまわりを照らすこと。
その姿勢が、見ている人を元気に、笑顔にすることができること。

咲き終わっても、種をしっかりと付けて新たな命になること。

そして、最後には『向日葵』の種が大好物であると、お茶目な言葉で締めくくり、自らの人生を『向日葵』と象徴させた理由を述べている。

もうすべて、この言葉の数々が、著者の人生哲学を凝縮しているように思える。
何度も繰り返しているようで、たいへん、恐縮であるが、この境地に到達するまでには、他者が簡単に共感できるほど軽々しいものではなく、本当に並々ならぬものがあったことと思う。

私は、あのTVCMの「私はがんになって、いい子をやめました・・・・・」というフレーズを聞いた時、当初は、その真意がわからなかった。
別に、「いい子になることをやめることもないのでは・・・・・」とか、「じゃぁ、これからは好き放題するということなのかな・・・・」とも受け取れてしまった。

今となっては、とてもお恥ずかしい。
私は、その程度の感受性しか持ち合わせていないようだ。

でも、この本には、その答えがしっかりと盛り込まれている。
私は、いまさらながら、ご本人の存命中にこの本を手にすればよかったと、深く悔やまれてならない。

ちなみに、この言葉の続きには、「いっぱい笑って、いっぱい泣いて、いっぱい楽しもうと思います!!」と、実にすがすがしい笑顔で語られている。
この意を深く汲みとることに、実は深い意味があったようだ。

涙を禁じ得ない。
改めて、追悼の意を込めてこの投稿を締めくくりたい。

魂でもいいから、そばにいて 3.11後の霊体験を聞く【奥野修司】

hosi11:私の満足度(5.0)
タイトルからして、なんともいえない切なさが溢れんばかりに伝わってくる。
この本は、あの忘れもしない東日本大震災被災者ご遺族の方々が、お亡くなりになられた方との不思議な遭遇体験の声を取材したノンフィクション。

hyousi私がこの本の存在を知ったのは、震災後7年を迎えた2018年3月11日、とあるTV特番の番組内のこと。
一見、よくありがちな、都市伝説的なオカルトチックな内容かとも思ったが、番組に出演していた著者から、どうやら、そう単純なものでもなく、壮絶なヒューマンドキュメンタリーであるという解説がなされた。

著者の奥野氏は、どうやらこの手の不思議体験の世界に関しては、もともと興味を持っている人ではなかったようである。
むしろ、どちらかというと否定派であり、それもそのはず、本来、この方は、今までの活動やこれまでの著書を見ても、あきらかに現実的なノンフィクション作家なのである。

しかし、被災地を足しげく通いつめ、取材を進めていくうちに、徐々にどこからともなく被災者の不思議な体験談が少しずつ耳に入ってくる。
その声の内容は家族や近親者を無くした方々の、非科学的ともいえる不思議な体験の言葉の数々。

現実路線のノンフィクションライターとして、真偽の確証を得ることができないその手の情報には、おそらく戸惑いもあったのは想像に難しくはない。
考えようによっては、極限状態に置かれた被災者の精神的な、なにがしかの作用とも受け取れる。

ただ、都市伝説の類と軽く聞き流してしまうには、あまりにもその体験者の切迫した内容や、リアリティに満ちた語りを聞くうちに、その懐疑的な見方は徐々に遠のいていく。
現実的、客観的視点を持つ著者が、その不思議な体験談の数々が実際に起きていることとして、まずは被災者の心情に寄り添ってみようということからの取材となったようである。

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 しかし、話題が話題だけに、当事者の方々と対面しても、実際のところは、その口は決して軽くはない。
それは、体験者自身の、今は亡き愛おしい人と共有した不思議体験を、自分だけの想いや支えとして大切に留めておきたいということでもあろうし、体験者自身がその不思議体験に対して、心の整理に時間を要するということもあったようである。
そのため、一度の対談でその体験談の内容やその背景を捉えきるのは難しく、著者は最低でも一人あたり三回は取材を申し込んでいたという。

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そして、そこから見えてくるのは、ただの単純な不思議体験ということではなく、人々の日常の営みに対する慈しみ、人が人として生きる意味、魂が魂と出会う奇跡と縁(えにし)ということに関し、著者も今までとはまた違う視点を持つことになる。

被災者ご遺族の、混沌とした戦場のような被災現場の中で、やっとの想いでご遺体と接するまでの、その悲痛なまでのご苦労。
そして、荼毘に付するまでの決意。

さらにお骨にしてもなお、未だ納骨できずに一緒にそばにいたいというその想いの数々。
仏道として彼岸にお送りするという一般的な考え方よりも、生の人間としての心の痛ましさには胸が締め付けられる。

なにもかも失って呆然自失とした中で、その被災者の方々の共同体の中でも孤立してしまう人も決して少なくはない。
これは、突如として、こういう事態に放り込まれた時、想像以上に人は日常の機能を失うということが、非常にリアルな現実として突きつけられる。

同じ体験者であったり、あやうく難を逃れた人達、様々な状態の人たちがそれぞれの立場で、恐ろしいまでの重圧に苛まされている。
しかし、その中で希望の光が見えてくるくだりには、その悲しみへの涙だけではなく、人としてのナチュラルな優しさや強さへの感動の涙も実感させられる。

この本の入手には、TVの影響もあってか、私がよくお世話になるネットショップには、どこも在庫がなかった。
しばらく、入荷待ちの状態で実際に入手するまで結構待たされてしまい、今はそうでもないようだが、それほどTVのインパクトも大きかったようである。

私は、ほとんど通勤電車の中で読んでいたのだが、なかなか読み切るまでには日々ツライものがあった。
それは、その衝撃の体験談の数々に人混みの中も憚らず、涙が溢れてくるのを抑えきれないのである。

特に、亡くなられた方々の在りし日の写真画像が盛り込まれているのには、思わずその画像に注視してしまう。
そのあまりにも、無慈悲な運命の仕打ちに視線を外すことができなかった。

どうしても、私たちはやはり「のど元過ぎれば・・・・・」ではないけれども、あの日から7年も経過してくれば、正直なところ、徐々にその想いも記憶も、当時ほどのひっ迫感と臨場感は希薄化されつつある。
特に私は直接の被災地からは離れたところに住んでいることもあり、被災者の方々からすると「所詮、対岸の火事であろう・・・・」と思われても反論の余地もない。

安易にわかったような気になるのは、あまりにも当事者の方々には大変申し訳ない気もする。
やはり、真のその痛みや苦しみは、体験した当事者でなければわかりようがないものであろう。

しかし、あの日あの時、あの衝撃の事実を突きつけられた同じ国の民として、そこに心を傾けることは同じ時代を生きている人として、決して不敬に値するものでは無いのではなかろうか。
体験しなければわからないということで言えば、この災害に限らず、私たちの日常の中でも周囲に様々な苦しみを抱えている方が大勢存在する。

そこに目をつぶり、「私にはわからないことだから・・・・・・」ということがまかり通るようでは、決して健全な社会とも言えないであろう。
また、個人としても、共感という感覚を失ってしまうのは、それはあまりにも物悲しいことでもある。

この本の構成として『春の章』、『夏の章』、『秋の章』という章分けで、16のエピソードが披露されている。
恐らくはこの本に納めきれなかった、体験記もたくさんあっただろうし、取材しきれていない部分もあろうかと思われる。

章の立て方として『春・夏・秋』となっていて、『冬の章』がないということが、著者の活動がまだ継続されることを意味するという。
著者がどうして、この章立ての名に季節の意味を込めたのかは、たいへん興味深い。

そして、最後の章となると思われる、その『冬』の章では、どんなことが構成されるのだろうか?
また、著者は何を語りかけてくるのだろうか?

いずれにしても、この本から何を感じることができるのか、私達読者も身を正してこの事実を受け止める必要があるのかとも思う。
ぜひ、続編の出版を期待したいところである。


荒くれ漁師をたばねる力【坪内知佳】

hosi08:私の満足度(3.3)
『ド素人だった24歳の専業主婦が業界に革命を起こした話』というコピーにつられて購入。
非常に興味深いテーマで、私は個人的にドン底から這いあがっていくという、この手のサクセスストーリーは結構好きである。

hyousi帯によると、TV番組にも取り上げられたようでもあるが、私はその番組は見ていない。
たまたまネット情報の宣伝コピーと、この表紙のビジュアルのお姉さんが?というのに惹かれて、目を通してみようかな・・・・というのが、この本を手にしたきっかけ。

とにかく、一気に読み上げた。
単純な読後感としては、スラスラと読めて面白かった。

一応、ノンフィクションではあるというものの、話の設定シチュェーションから、登場人物、展開がドラマチックすぎて、やや話がうますぎるなと思うところもある。
その気になれば、この流れはドラマにも映画にも展開していくことはできよう。

まぁ、この件については、後述したいと思う。
ただ、読んでいて、私なんぞには、ここ最近忘れかけていたことにガツンとくるものがあり、なかなか考えさせられるところが多かった。

obi著者である坪内氏の、この事業にかける情熱と行動力。
大義のため小事に拘らず、なにがなんでもやりぬくという姿勢には、年の差、性別などはまったく関係なく、もう頭が下がるのみ。

管理職になったばかりの人、これからなる人、管理職ではあるけれど立ち位置を見失いそうな人、等々の方々にはぜひ一読をお薦めしたい一冊。
この世の中、仕事に限らず何かを成そうとすると、必ず人との摩擦はおきるもの。

たとえ価値観が一緒と思える相手でも、その意志の疎通や継続的に共感を得ていくということは、会社のみならず、それは家族であってさえ容易なことではない。
それは、人はどこまでいっても最終的には一人であり、その最小単位の個人であることで物ごとの是非を考えてしまうというのが本質であるから。

そこには、損得といった利害関係や、個人のプライド、どうしても理屈だけではまかり通らぬ感情などが大きな壁となって立ちはだかる。
それを一つの事業目標に向って、荒くれ者たちを、まだ20代そこそこのシンングルマザーが代表取締役として束ねていく。

さらに、その個人の集合体が永年の時を刻んで構築してきた、旧態依然とした大きな既存勢力に対しても、全く動じることなく、自らの信念を貫き対峙していく。
まさに、痛快極まりない。

日本の漁業の未来を見据え、八面六臂の活躍で日本中を駆け回る姿は、どこか「日本の夜明けを・・・・」と、声をあげていた幕末の誰かさんにそっくりでもある。
ひとかどの人物と思われる人は、いつの世も、世代や性別を問わず、現れる時は現れるものなのだろう。

ただ・・・・・・。
ここは、私の読後感として、気になることがないでもない。

「とにかく、すばらしい!!」というだけのベタボメの読後感であれば、通販サイトの商品レビューなどであまたと溢れているので、そちらを参考にしてもらえればと思う。
ここは私らしく、率直にその気になるところを述べておこう。

しかし、あらかじめ誤解のないように。
私は、この坪内氏本人のことや、事業活動そのものには、まったくケチをつける気はない。

あくまでも、この本のクオリィティとしての所感なのである。
つまり、ひょっとしたら、著者がどうとかというよりも、出版社の編集サイドの問題なのかもしれないのだ。

では、その気になるところを列記してみよう。
基本的に、著者本人のプロフィール描写が充分ではないということなのだと思われる。

①大学中退と離婚してシンングルマザーというのが、果たして絶望的と言えるのであろうか?
本の帯にもあるように、著者である坪内氏は大学中退、離婚を経験しシングルマザーということ。

そして、まえがきの中で、その経歴を「傍から見たら絶望的に見えるかもしれない」と表現している。
確かに、ダブルでこういう経験をすると、本人的にはショックだったかもしれないし、実際、シングルマザーとしての生活は相当に大変であったであろう。

しかし、世のシングルマザーの方々は、苦労しながらも必死にがんばっている人も決して少なくもないし、大学中退という事実を加えたとしても、同種の経験をしている人も、現実には多くいらっしゃると思う。
これを、絶望的などという表現に一括りにされるのは、ちょっとどうかなということ。

確かに、突然の病気によって本人の夢を断念せざるを得なかったのは、断腸の思いでもあったであろう。
しかし、後半で出てくるエピソードではあるが、稼業が自営の家に生まれ、小学2年生で海外旅行を初体験、高校時代にオーストラリアに留学、病気の後もカナダへ留学できるという、比較的な恵まれた環境でもあったようである。

さらに、結果的には離婚ということではあるものの、辛い状況の中、子を授かるほどの伴侶も得たわけである。
そして、このビジュアルの持ち主でもある。

この本の構成上、ドラマチックに仕立てる必要があったのかもしれないが、必要以上の底辺感を演出する必要があるのかと、私にはまず第一に思えたこと。
一般的とは決して言えないかもしれないけれど、それなりに(どちらかというと恵まれた環境からの)山もあって谷もあったという経歴ではなかろうか。

あえて、これをいうなら、世の中卒や高卒の離婚体験者の方々に対して、大変失礼な表現となるということは忘れてはならないと思うのだ。
がんばっているのは、この著者だけではない。

②大学中退の理由?
そして、大学中退のくだりについても、もともとCAを目指していたことが、突然の病気によってその夢が絶たれたということ。
これは、誤診だったとはいえ、余命半年といわれるにあたっての衝撃は相当のものであったのは容易に想像できる。

このあたりについては、未来を描いていた血気盛んな若い人の身に突然起きたアクシデントとしては、大変お気の毒でもあるし、同情の念を抱くものでもある。
しかし、結果として「CAになれないなら、大学に通う意味はあるのだろうか?」という疑問から、大学を辞めたというのはどうだろう?

本人としての勉学目標はそうだったのかもしれないが、そもそも大学ってCAになるためだけにあるのだろうか。
CAになるためだけだったら、なぜ大学ではなく専門学校にいかなかったのだろうか?

この著者にとって、大学での学業って何だったのだろうか?という疑問が残る。
「ふつうの豊かさに縛られていた・・・・・、」という、本人の人生哲学のもとになると思われる記述も見られるが、そのふつうを維持してくれていた周りへの感謝の気持ちというのが本人から見えず、残念ながら私には、なかなか共感には至らないのだ。

病気によって、卒業まで学業が続けられなかったというのであれば、それはやむを得ないことなのかもしれない。
しかし、この情報量だけで判断するに、大学中退という事実に関してだけのことでいえば、あまりにも必然といえば必然の自己責任であると思わざるをえない。

③コンサルタントをしていたということだが、どうやってこの仕事をしていたのだろうか?
本文の出だしから、いきなり旅館のスタッフに対するコンサルティングをしていた、という話が始まる。

これには、私は最初から状況理解に苦しんでしまった。
正直なところ、この段階で得られる著者のプロフィールから想像できることで、とてもコンサルティングなどできる資質が感じられないのである。

特に経営学を勉強していたわけでもないし、コンサルティングができるほどの就労経験をしていたという記述もない。
コンサルティングという言葉の定義が違うのか?とも思ったが、どうもそこへの詳細記述もないのだ。

接客?財務?労務?業務システム?それとも総合的に経営指導?
このことは、後の新規事業を牽引する人物の側面としては、結構重要な部分でもある。

この本における本質部分のことは、単なる思い付きや、勢いだけでは実践できるものではない。
もともとの本人の資質の部分への描写が、あきらかに欠けているため、そもそものこの坪内知佳という人は、どういう人か?という部分が全然把握できないのである。

④社長業の実態は?
この本を読んでいて、ところどころで???と思ってしまうのは、経費の部分である。

事業化を進めたものの、全てが順風万端でもなく、何度か経営的な危機が訪れているのが記述されている。
その度に、著者はじっとしていられない!!やることがある!!とばかりに能動的に広範囲に営業活動を続ける。

お子さんも24時間保育に預けてのこと。
人を雇い入れるのも、主張先での面接?面談?によって、ホイホイと採用している。

人や物への投資という部分でも、思いきりがよいといえばよいのだが、この本はフィクションではなく、現実の話をまとめ上げているのであろう。
話としては痛快そのものなのだが、現実目線でいうと資金繰りやキャッシュフロー、また本人の報酬面についてはどうなっているんだろうと、思えて仕方がない。

ここが私が冒頭に管理職にお薦めといいつつも、経営者、これから起業する人をその中に入れなかった理由でもある。
何度もいうが、この話は創作ではない・・・・・・はずである。

もちろん、すべてが公表できるものではないということも百も承知であるが、少なくとも事業を進める話としては、極めて基本的なことで、まったくふれていないというのは片手落ち。
ここに蓋をしてしまうというのであれば、そもそも起業家をテ-マにした本を出版する意義があるのだろうか。

と、まぁ・・・・・・。
私なりに思うところもあったわけである。

本当は、まだまだ突っ込むところもあるのだけれども、これ以上は、ただの粗探しになってしまうので、このへんにしておこう。
しかし、何度も繰り返すが誤解のないように。

著者ご本人が取り組まれていることは、すごく賛同できることだし、この方のがんばりという意味では、冒頭にも述べたように、私自身も冷や水を浴びせられたような感銘を受けたのは事実。
何かに取り組むには、青いと言われようが何と言われようが、一途な情熱は必要。

「そろばんより、ロマンが大切なときがある」というのはまさに名言かと思う。
でも、ロマンだけでも事が成せないのも事実。

この本の仕上がりとして、私的には、その現実面にもふれて欲しかったところでもある。
この本の最後の部分で、締めくくりとして、所信とも経営理念・方針的なことが述べられている。

いささか、気負っているのかな・・・・とも思われるところもあり、やや心配になるところもあるが、この本の全てが、今後のご本人の実際の行動となっていくわけでもないと思うので、とにかく、がんばって欲しいということには変わりはない。
この本の読後感とは別に、著者にはエールを送りたい。

証言・臨死体験【立花 隆】

hosi06:私の満足度(2.5)
本書は、臨死体験(上下)巻の続編という位置付け。
前作では、この臨死体験という現象について、徹底した調査と分析から、科学的視点をもって、その実態を検証してみようという目的で著述されていた。

もちろん、前作でも、臨死体験の実態を取り上げるために、多くの体験者からの証言の取材が敢行されている。
しかし、事例を多角的な見方による分析を行うことから、著者が思う通りに、その実体験をフルに取り上げることには限界があったようである。

rinsitaiken3のため、反響を呼んだTV番組や前作によって、その後、大きな議論が湧き上がるが、著者としては、やはり、証言の全てが理解されていない中での議論には、歯噛みをする想いがあった様子。
そのことから、この続編の位置付けにあたる本書では、体験者が語る、その体験内容の各種証言データをフルサイズで記録化しようとのことで、この続編を編んでみたとのこと。

やはり、当たり前だが、臨死体験を考えるには、臨死体験の具体的な事例を知ること。
それも、断片的な体験を多数知るよりは、一つの体験をフルで知る方がいいとのことから、本書では23人分の体験がまとめ上げられている。

その対象となった23人も、著名人と市井の一般の人までを織り交ぜ、その体験内容・発生状況・体験時間・体験後の本人捉え方、死生観の変化等も、全てバラバラの事例が集められている。
臨死体験といっても、一口で語れるものでもなく、一定の法則があるようにも思える反面、その一人一人の体験内容は非常にユニークでもある。

この臨死体験とは、いったいなんぞや?というテーマについては、やはり前作の『臨死体験(上・下)』巻にて、たっぷりと収められていて、本書では、まずはそこは前作にお任せするとして、その事例の数々を、いたずらに、はしょってしまうのではなく、フルサイズでしっかりと見てみようというスタンスになっている。

そのため、あまり難しい学説が飛び交うこともないため、肩の力を抜いてゆっくりと読み進むことができる。
つまり、この本の主人公がその23人の体験者自身となるため、摩訶不思議なオムニバスストーリを読んでいる気分にもなるのである。

そして、その体験内容も、体験者によるスケッチ絵を使用しての状況説明もなされているため、よりその現象の内容もイメージし易い。
ただ、一人一人の体験が、あまりにも非日常的で、多様でもあるため、なかなか読んでいて、それぞれの体験に頭を切り替えていくのが大変。

私が読んで思ったのは、やはり先に、『臨死体験(上・下)』巻を読んでおくということは重要なことかもしれない。
もし、単独で本書を読んだ場合、やはり本来ノンフィクションであるはずのものなのだが、その得体の知れないストーリーの数々に、独自の先入観が生まれてしまい、著者がこの臨死体験というテーマ全般に対して表明したかったことの全貌を受け止めることが難しくなるような気がするのだ。

でも、それでもやはり、難しいテーマであることには間違いない。
このシリーズを通して読み切っても、この臨死体験という現象そのものに対して、一定の見方・考え方の変化はあったものの、なんらしっくりとくるものがないというのが私の結論。

科学的側面からでは、ギリギリのところまでは迫れても、やはり完全なる証明にはまだまだ程遠く、そうなると抽象的な観念にゆだねた、宗教・オカルト的な見方も、その存在の意味も否定はできないのである。
もとより、この世の中、この宇宙世界も含めて、まだまだ解明不能なことだらけ。

関係があるかどうかわからないが、本書に”はじめに”というプロローグはあっても、”あとがき”のようなエピローグがないのは、そこはなにか著者の思うところがあったのかもしれない。
そして、この臨死体験シリーズの中で、私が気になるポイントとして、一切触れられていない視点が2点ほどある。

それは、
①全生物の中で人間だけが体験しうることで、思考されるべき概念なのかどうかということ。
②人の意識をコンピューターに組み込んで、実質永遠の意識を手に入れることが仮に実現したら、この臨死体験という概念はどうなるのか・・・・・・・。
という2点。

まだまだ、とても奥が深く、疑問への入り口に立ったばかりなのではないかという気がする。

この臨死体験シリーズの本と出合ったことにより、色々と死後の世界を考えるということだけではなく、人生論的にも、サイエンスフィクション的にも、生きるということに様々なファクターで考えさせられる機会を得た気分である。
そういう意味では、この本の読書中、大変有意義な時間を過ごせたということが実感される。

ただ、残念ながら、先の『臨死体験(上・下)』巻とセットで本書を読んでこそ、初めて本書の意義が確かめられるものであり、この本単独での読後感と考えると、私の満足度を表すとやはり2.5が限界かというところ。
しかし、この臨死体験シリーズ全巻セットで考えると、この超大作にして4.8とだけはここに記しておこうと思う。
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