hosi11:私の満足度(5.0)
タイトルからして、なんともいえない切なさが溢れんばかりに伝わってくる。
この本は、あの忘れもしない東日本大震災被災者ご遺族の方々が、お亡くなりになられた方との不思議な遭遇体験の声を取材したノンフィクション。

hyousi私がこの本の存在を知ったのは、震災後7年を迎えた2018年3月11日、とあるTV特番の番組内のこと。
一見、よくありがちな、都市伝説的なオカルトチックな内容かとも思ったが、番組に出演していた著者から、どうやら、そう単純なものでもなく、壮絶なヒューマンドキュメンタリーであるという解説がなされた。

著者の奥野氏は、どうやらこの手の不思議体験の世界に関しては、もともと興味を持っている人ではなかったようである。
むしろ、どちらかというと否定派であり、それもそのはず、本来、この方は、今までの活動やこれまでの著書を見ても、あきらかに現実的なノンフィクション作家なのである。

しかし、被災地を足しげく通いつめ、取材を進めていくうちに、徐々にどこからともなく被災者の不思議な体験談が少しずつ耳に入ってくる。
その声の内容は家族や近親者を無くした方々の、非科学的ともいえる不思議な体験の言葉の数々。

現実路線のノンフィクションライターとして、真偽の確証を得ることができないその手の情報には、おそらく戸惑いもあったのは想像に難しくはない。
考えようによっては、極限状態に置かれた被災者の精神的な、なにがしかの作用とも受け取れる。

ただ、都市伝説の類と軽く聞き流してしまうには、あまりにもその体験者の切迫した内容や、リアリティに満ちた語りを聞くうちに、その懐疑的な見方は徐々に遠のいていく。
現実的、客観的視点を持つ著者が、その不思議な体験談の数々が実際に起きていることとして、まずは被災者の心情に寄り添ってみようということからの取材となったようである。

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 しかし、話題が話題だけに、当事者の方々と対面しても、実際のところは、その口は決して軽くはない。
それは、体験者自身の、今は亡き愛おしい人と共有した不思議体験を、自分だけの想いや支えとして大切に留めておきたいということでもあろうし、体験者自身がその不思議体験に対して、心の整理に時間を要するということもあったようである。
そのため、一度の対談でその体験談の内容やその背景を捉えきるのは難しく、著者は最低でも一人あたり三回は取材を申し込んでいたという。

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そして、そこから見えてくるのは、ただの単純な不思議体験ということではなく、人々の日常の営みに対する慈しみ、人が人として生きる意味、魂が魂と出会う奇跡と縁(えにし)ということに関し、著者も今までとはまた違う視点を持つことになる。

被災者ご遺族の、混沌とした戦場のような被災現場の中で、やっとの想いでご遺体と接するまでの、その悲痛なまでのご苦労。
そして、荼毘に付するまでの決意。

さらにお骨にしてもなお、未だ納骨できずに一緒にそばにいたいというその想いの数々。
仏道として彼岸にお送りするという一般的な考え方よりも、生の人間としての心の痛ましさには胸が締め付けられる。

なにもかも失って呆然自失とした中で、その被災者の方々の共同体の中でも孤立してしまう人も決して少なくはない。
これは、突如として、こういう事態に放り込まれた時、想像以上に人は日常の機能を失うということが、非常にリアルな現実として突きつけられる。

同じ体験者であったり、あやうく難を逃れた人達、様々な状態の人たちがそれぞれの立場で、恐ろしいまでの重圧に苛まされている。
しかし、その中で希望の光が見えてくるくだりには、その悲しみへの涙だけではなく、人としてのナチュラルな優しさや強さへの感動の涙も実感させられる。

この本の入手には、TVの影響もあってか、私がよくお世話になるネットショップには、どこも在庫がなかった。
しばらく、入荷待ちの状態で実際に入手するまで結構待たされてしまい、今はそうでもないようだが、それほどTVのインパクトも大きかったようである。

私は、ほとんど通勤電車の中で読んでいたのだが、なかなか読み切るまでには日々ツライものがあった。
それは、その衝撃の体験談の数々に人混みの中も憚らず、涙が溢れてくるのを抑えきれないのである。

特に、亡くなられた方々の在りし日の写真画像が盛り込まれているのには、思わずその画像に注視してしまう。
そのあまりにも、無慈悲な運命の仕打ちに視線を外すことができなかった。

どうしても、私たちはやはり「のど元過ぎれば・・・・・」ではないけれども、あの日から7年も経過してくれば、正直なところ、徐々にその想いも記憶も、当時ほどのひっ迫感と臨場感は希薄化されつつある。
特に私は直接の被災地からは離れたところに住んでいることもあり、被災者の方々からすると「所詮、対岸の火事であろう・・・・」と思われても反論の余地もない。

安易にわかったような気になるのは、あまりにも当事者の方々には大変申し訳ない気もする。
やはり、真のその痛みや苦しみは、体験した当事者でなければわかりようがないものであろう。

しかし、あの日あの時、あの衝撃の事実を突きつけられた同じ国の民として、そこに心を傾けることは同じ時代を生きている人として、決して不敬に値するものでは無いのではなかろうか。
体験しなければわからないということで言えば、この災害に限らず、私たちの日常の中でも周囲に様々な苦しみを抱えている方が大勢存在する。

そこに目をつぶり、「私にはわからないことだから・・・・・・」ということがまかり通るようでは、決して健全な社会とも言えないであろう。
また、個人としても、共感という感覚を失ってしまうのは、それはあまりにも物悲しいことでもある。

この本の構成として『春の章』、『夏の章』、『秋の章』という章分けで、16のエピソードが披露されている。
恐らくはこの本に納めきれなかった、体験記もたくさんあっただろうし、取材しきれていない部分もあろうかと思われる。

章の立て方として『春・夏・秋』となっていて、『冬の章』がないということが、著者の活動がまだ継続されることを意味するという。
著者がどうして、この章立ての名に季節の意味を込めたのかは、たいへん興味深い。

そして、最後の章となると思われる、その『冬』の章では、どんなことが構成されるのだろうか?
また、著者は何を語りかけてくるのだろうか?

いずれにしても、この本から何を感じることができるのか、私達読者も身を正してこの事実を受け止める必要があるのかとも思う。
ぜひ、続編の出版を期待したいところである。