正下村塾

その昔、この名称で別スタンスのブログや個人サイトをあげていたことがあります。 10数年ぶりに、完全リニューアルでブログを復活させました。 私の思う【キャリア形成と雇用問題】、【世の中のこと】、【身近なこと】、【私の読後感】等、硬軟入り混じったサイトとなります。 どうぞ、よろしくお願いいたします。

2016年06月

舛添問題について・・・・・(2)

さて、舛添氏の今回の顛末にについて、私の思うことシリーズ第二弾。
どうして、彼の人は、あそこまで叩かれたのであろうか?というところに、言及してみたい。


まぁ、一番に感じたマスコミの姿勢やあり方については、また別の問題と思うので、ひとまずここでは、そこはおいておくことにする。
なぜなら、マスコミの報道体質や、姿勢・傾向については、何も、今回の舛添騒動だけに限ったことではない。

色々と思うことは、昨日今日に始まったことではないのだ。
このことについては、いずれ、また機会があれば、別の切り口で切りこんでみたいと思う。


さて、本題に話を戻そう。
どうして、かの舛添要一氏はあそこまで、世間に叩かれまくったのか?ということ。


私が思う、その原因は2つある。
ひとつは、この問題の根本原因である、やはり公金に対する公私混同問題や高額出張、美術品の購入等々の諸問題。


これはもう、この問題の原点であり、おそらく、この実態を知って眉をひそめぬ人はいないのではなかろうかというところかと思われる。
でも・・・、どこかで、一部の舛添氏擁護派の人たちが言うように、「何で舛添さんだけが・・・・」という理屈も、正直なところ、私個人的にはわからないでもない気がしている。


多分、いや、これはまちがいなく、氷山の一角で、事の大小はともかくとして、本質的な問題の部分は、おそらく他の道府県、いや国レベルでもあるのではないかと推察する。
だがしかし・・・・・。

だからといって、それでいいという理屈にはならない。
判明した以上は、説明責任を果たしてもらうというのは当然のこと。


「潜在的な違反者がたくさんいるんだから、僕だけ見つかって、責任を追及される必要はないでしょう・・・」とは、どんな世界のルールでも通じる話ではない。
それは、ダークな闇の世界、いや動物の世界でさえ、それは”掟”とか”けじめ”という形で、必ず制裁はあろうかというもの。


それが、組織とかなんだとかいう以前のこととして、動物集団にでさえ存在する、社会構造的な自然のルールなのである。
そして、この舛添氏・・・・・。

これがまた、おもしろいくらいに次から次へと様々な問題が出てくるのだ。
一体、どんだけ無茶してまんの・・・・と、思えるほど。

これはやっぱり、マスコミがどうとか言う以前に、世間の注目が集まっても致し方がないというもの。
なにせ、公人なんだから。


そして、もう一つの理由とは・・・・・・・。

はっきりと一言でまとめてしまうと、人としての浅ましさ・・・・・かな。

あの舛添氏のことを、「頭のいい人だから・・・・・」って言っていた人がいるが、果たしてそうか?

学術的には、それは出るところ出ているので、優秀なのかもしれないが、人としては完全におバカさんであろう。

申し訳ないが、かの人を指して、”頭がいい”というのなら、私は、高卒で必死に自分の人生を切り開くために努力している、本当に”頭のいい”人を何人も知っている。

ハッタリと知識量だけで、仕事は廻らないのは働くビジネスマンなら自明のこと。

舛添氏がおバカさんと思えた、その理由は、言わずと知れた、問題発覚後の定例会見等での氏の態度姿勢のことである。

全国放送されている定例会見での、あの、まるで子供のような応対姿勢は、都民はおろか国民レベルで怒りの標的になってしまったということ。

まず、端的に言うと社会的に通用しないのだ。

舛添氏は本気であの姿勢が通用すると思っていたのであろうか。

与党の後ろ盾があるから、とりあえず、表面的な対応で時間稼ぎをしていればいいと思ったのであろうが、結果的に、世間の反応が自分の予想外になってしまった。
早い話が、読みを誤ったということなのだろうが、それは裏を返すと、いかに世間が見えていないかということ。

でも、それは一般的な感覚からすれば、あの対応では誰も納得できるものではないことはわかり切ったこと。
もう世間が見えていないというどころではなく、社会が見えていない・・・・・、いや、常識がわからないのだと言わざるを得ない。

こんな人に都政が担えるのか?ということが、大幅にクローズアップされてきたということ。
つまり、自分で自分の首を絞めたわけであり、火災現場で初期消火を完全に間違えてしまったということに他ならない。

氏自身でも、「こんな性格なので・・・・」と、いうような発言もあったようだが、これは正確ではない。
性格などというものではなく、もはや人としての資質の問題であろう。

自分の発言や態度がどんな展開になるのかということが読めないのである。
さらに、自身を客観的に見つめることもできない。


あくまでも自分が中心だから、「学者出身だから、生意気なことを言っているように映ることもあると思うんです・・・」とか、「こういう場での受け答えにしても、こういうタイプですから理論的なことが先行すると思う・・・」とかの、もう、とことん困ったちゃん発言を堂々としてしまうわけなのである。
聞いている方は、もう呆然・・・・・・。

「コノヒトハ、ナニヲイッテイルンダ・・・・」状態である。
こういうことを言うと、人の耳にはどう伝わるんだろうとか、どういう展開になっていくのかということの先が読めないのである。


いわゆる、風が吹けば桶屋が儲かる的な発想ができないのであろう。
これはもう、頭のいい人とは、私には、何がどう転んでも思えないのだ。


都議会内部、与党との連携が期待できていたのか、一時期、強気な表情をしていた時もあったが、世間・世論を理解することができなかったということ。
もう、これだけで、都知事、いや人の上に立つ仕事への資質は大いに問われるというもの。


私は、離職に至るまでの舛添氏がこれだけ追いこまれたのは、この二つが要因であると考えるのだが、最初の問題が発覚した時点で対処を間違えさえしなければ、ここまで問題は大きくならなかったと思う。
むしろ、その後の対処を間違えただけに、どんどん収拾がつかなくなり、本来、元々たいして興味を持っていなかった層の人達にまで、この問題を注目させてしまったように思うのだ。


すべてにおいて、氏自身のコンプライアンス意識が著しく欠如(もしかして皆無?)しているということなのであろう。
また、舛添氏の人望的な問題もあるのか、よい側近が回りいなかったのも不幸であったのかもしれない。


あるいは、きちんと進言をする側近がいたにも関わらず、氏本人が聞く耳も持たなかったのか?
もしそうなら、それはもう、自業自得としかいいようがない。


また、これはもう病気としか言いようがないのではなかろうか。
いや、実際のところ、発〇障害の人?・・・・・なのだろうか。

舛添問題について・・・・・(1)

この原稿のアップ時点では、まだ東京都知事である舛添要一氏。
もう、一連の流れは、テレビや雑誌、ネットなんかでも流れている通りなので、あえてここでは繰り返さず。


一応、本人が辞職という形で、疑惑の深層は闇に葬ったまま、無理やりながらも、決着がついてしまったようである。
しかし、この一連の報道で、私自身が気になった点について、少し、シリーズ化して取り上げてみたいと思う。


今回は、まずその第一弾。

まず、舛添氏の公私混同疑惑に関する、一連の疑惑の数々であるが、これらを総して『せこい』という表現があちこちで耳にすることとなった。
海外メディアのNYタイムズにでさえ、『せこい』というワードが紙面に載るほど。


ただ、私には舛添氏の行動を表す表現として、どうにも、この『せこい』という表現がピンとこない。
そもそも、我々も日常的に良く使う、この『せこい』という言葉に、どんな定義があるのか?

私なんぞも、なんとなく感覚的に使っているのみで、ちゃんとした語彙をとらえているわけではない。
とりあえず、この『せこい』という語を私なりに調べてみた。

まず・・・・・・・。
日本語俗語辞書では、


せこいとは細かくてケチなことや、ずるいことを意味する。
現代では主に金銭的なことに使われるが、当初、悪い・下手(へた)という意味でも使われた。
また、客種が悪い・景気が悪いといった意味で的屋、芸人が隠語として使用。
これが関西を中心に一般にも広まる中で現在のような意味を持つようになった。



Weblio辞書では、


けちで下衆な趣のあるさま。
吝嗇でしみったれている様子。
小物くさい様子。



コトバンク、デジタル大辞泉では、


悪い。
みにくい。
へたである。
主として明治期の芸人の間で使われた語。
けちくさい。
ずるい。
料簡(りょうけん)がみみっちい。


などなど・・・・・・。

いずれも、舛添氏を評して、的を得ているような、いないような感じ。
私が個人的に捉えているこの言葉の語彙では、小悪党がする小事、茶目っ気半分でズルをするといったようなイメージで、今回の舛添氏の問題は、こんなスケールのものではないように思えるのだ。

舛添氏の今回の行動の数々は、もっと、私利私欲に狡猾で、権力欲・支配欲が強く、ずるがしこい策略家としての行動。

さらに、倫理や信義礼節といった系統の意識のブレーキが壊れた、暴走トラックのようなご仁という状態。

これを、『せこい』の一言でおさめられてしまうのは、私としてはなんとも腑におちない。

使った対象や金額が庶民的といっても、やっていいこと悪いことの判断基準の重さからすると、これはやっぱり『せこい』などというレベルのものではない。

テレビやネットなどで、次々と著名人・文化人・コメンティター・芸能人等々から、果ては政治家までが、この件について、『せこい』という言葉を鬼の首でもとったかのように連発している。
私がこの傾向に対して腹立たしいのは、いつの間にか自然とこの件が、「せこかったね、あれは・・・・・」などと軽んじられてしまうこと。


そういう意味では、舛添氏本人の、およそ一般人には考えられない、あの数々の会見での往生際の悪さ・・・・。
また、最後の定例会見・退任会見も行わないという、引き際においてまで醜態を晒して、なお平気でいられるという神経が維持できているというのは、どこか、その軽んじられたムードが舛添氏の行動基準の核になっているようにも思えてしまう。

「そうさ、俺はせこいのよ!!」と、尻をからげて逃げ去る、舛添氏のうすら笑いが聞こえてきそうだ。
今回の件で、この『せこい』という言葉を軽々しく引用するのは、マスコミ関係を含め、私は、強く戒めるべきと思う。

正下村塾 名前の由来

tytle




isyouinこのサイト名は、”しょうかそんじゅく”と読みます。
この名称は、幕末維新の先覚者、長州藩士吉田松陰が主宰した松下村塾の名に、私の名前の”正”の一字をあてたものです。
直接、松下村塾との思想的な関りはまったくありませんが、私なりの想いが込められています。


syou個人・・・・・・・・・
 なかなか、難しい世の中になってきているのが、日々感じられます。
あってはならないこと、起きてはならないことが頻発しており、正しさの価値観が崩れてきているような気がしてなりません。
しかし、「善人になりましょう!!」と声高に叫ぶのは、私の役目ではありません。
この難しい時代だからこそ、一人一人の個人が主体的に、正しい価値観を持ち続け、自分にも他人にやさしく、直に生きて行くことこそが大事なのではないかと、私は思います。



sita階層・・・・・・・・・
 々(しもじも)とは、大辞泉によると「身分・地位などの低い人々・庶民」と、定義されています。
”身分・地位などの低い人々”という定義はともかくとして、私はこの庶民目線というものを大事にしていきたいと思います。
この国を支えている原動力は、一部の特別な能力を持った優秀な人達だけではなく、この庶民の日常のコツコツとした営みそのものだと思うのです。
私は、その庶民と呼ばれる一人一人の無限の可能性を信じています。



mura単位・・・・・・・・・
 村という言葉は、”村八分”とか”村意識”といったような、どうも閉鎖的・排他的なイメージばかりが強調され、あまり良い意味で使われていないように思います。
でも、どうでしょうか?閉鎖的・排他的というのは本当に村というコミュニティの単位の問題なのでしょうか?逆に都会では絶対にありえないことなのでしょうか?
実は、私達一人一人の心の問題を、いつの間にか都合よくすり替えてしまったような気がしてならなりません。
私は、本来のという由緒あるコミュニティに敬意を表し、今の社会にこそ欠けている要素を大事に見出していきたいと考えます。



jyuku学舎・・・・・・・・・
塾というと、ついスパルタ学習塾を連想してしまいがち。
しかし、私の意図するところは、スパルタ学習塾でも、学校でもありません。
それは、昔の寺子屋のようなものをイメージしています。
寺子屋とは江戸時代、爆発的に庶民の間で発展した教育施設で、手習い所()との呼び名もありました。
身分を問わず、分け隔てなく、個人教育の原点であった寺子屋。
このブログは、教育目的のブログではありませんが、情報発信という意味でのネット上の寺子屋でありたいという願いを込めています。


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女性にはわからない、男子トイレでの実態

  記念すべき最初の原稿は、こんなテーマから。
唐突だが、こういうところに鞄を置く人がいる。

syoubenkiupあまり、女性陣にはわからない世界の話かと思うが、ちょっとバッチィ話なんで、イヤな方はスルーしてください。
私の職場のトイレは結構、外部から不特定多数の人が出入りする。


(写真画像の小便器と鞄は合成で作成した画
像で、本文とは何ら関係がありません)

トイレで手を洗わぬなど、まだかわいいとさえ思える、私には気になる現象がある。
私は、じっくり観察しているわけではないのだが、ふとした拍子に、時々、上の画像に示すように鞄を置いて、用を足すご仁を見る場面に出くわす。

どちらかというと、中高年の上の層の方に多く、決して、たまたまという珍しい事象ではない。
多分、外で我慢して飛び込んできて、のっぴきならない状況なのかもしれないが、自分の鞄が汚れるのが嫌でないのだろうか?と私は不思議でならない。

誰が考えたって、この状況で用を足せば、シブキがかかることや、そもそも、床がそんなにきれいな場所ではないことくらいはわかろうというもの。
また、隣に人が立つことを考えると、自分と他人のとでのダブルシャワーである。

当の本人は平然と涼しげな顔で用を足して、こともなげに用が済んだらトイレを出ていく。
もちろん、みんながみんな、こういうわけでもないのだが、一部の特定の決まった人というわけでもない。

おそらく、どこか、衛生観念が壊れてしまっている人達なのかと思われるが、私には全く考えられない行為。
まぁ、本人が持つ鞄がどうなろうと知ったこっちゃないといえば、そうなのだが、私が気になるのは、その後のこと・・・・・・・・。

多分、平然と、このバッチィ鞄をあちこちの床やソファーに置き、電車では自ら膝に抱え、満員電車の車内では人の衣服と接触させ、飲み屋さんやホテルでは店の人に鞄を預けているのであろうということ。
こういうの見ちゃうと、もう、勘弁してほしいというか、こういいう人達を、どこかの衛生機関などで補導してほしいとさえ思えてくる。

この現象の亜流版が、若い人に多く見られるのだが、便器にビッタリ体を寄せて用を足す人々。
ひどいのになると、冬場などコートで便器を覆い隠している人まで見たことがある。

もう、こうなると、満員電車などではそばにも寄って欲しくないし、ましてや女性の方々、安易に彼氏や旦那に膝枕などしてもらおうなどとは、その相手の男性の日常行動を見極めるまでは控えた方が良いとさえ言い切れる。
リュックもそう。

ついさっきまで、怪しげな水?でビチョビチョだった床に平気でじか置きし、しゃがみこんで中の物をゴソゴソと整理。
その作業が終わると平気で、背に背負って、人混みの中に溶け込んでいく。

特に、上りのエスカレーターで、前にそういう人に立たれると、そのリュックの底の方が、ちょうど私の顔の位置の鼻先に来るのである。
どうなっているんだろうね、この感覚。

バックドロップしてもいいだろうか・・・・・・・・。

衛生的に神経質的なのも困ってしまうが、そこは一般常識レベルの観念として、その国民の文化レベルとして共有したいものではなかろうか。
もしかして、女子トイレにも似たような世界があったりして・・・・・。

はじめまして

ブログを立ち上げました。
原稿は、これからおいおいアップしていきます。

過去に自己サイトと、ブログを立ちあげていたことがありますが、久しぶりに開始しました。
更新のペースはかなり、遅いとは思いますが、変わった視点での情報発信も含めて構想を具体化していきます。

ご縁がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。

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